期待
だいぶ前だが日本に記録的な大雪が降った。
あの日、大学が休講になったり会社が休みになったりして皆気が抜けた1日を過ごしたことだろう。
しかし俺はその日バイトが入っていた。客なんてくるはずないのに。
でも俺には淡い期待があった。今日だけ昇給とか、まかないパーティーとか。
俺は店に電話して営業してるか尋ねるとしてるらしい。ため息ハーハー家を出る。
鍵を閉めて傘を差しシャギシャギ重い雪を踏んで歩き出した。
家から駅まで徒歩15分。うん、間に合いそうだ。
歩いていると、駐車場でタイヤが空回りしているミニバンに目が止まる。
おばあさんがミニバンを後ろから押している。おいおい、それじゃ意味ないよ。
俺は駆けつけて傘で後輪界隈の雪をゲットリド!ひたすらに掻き出した。
するとミニバンはスーッと前進。俺は事を終えて少し期待した。金くれんじゃね?いや期待すんな俺。赤の他人だぞ、あり得ない。いや、だからこそだ。他人だからこそ金もらえるかも。結果、言わずもがなノーマニー。
でも俺には幾ばくかの幸福感があった。いいことしたな、っていう。
バイトには遅刻したけどなんかピースな心持ちだった。
こんなこと、誰しもが経験してると思う。基本的に人間は優しい。他人でもその人が困っていたら助けたくなるもの。ただ、俺も含め見返りを求めてしまうのも人間の性である。これは別にセコいことではなくて当たり前。人は時間を割いたり、金を費やしたりすると見返りが欲しくなる動物なのだ。
誕プレが顕著な例である。マブな奴に誕プレをあげたのに自分のバースデーにはノンレスポンス。おい。憤りMADMAX。マブだと思ってたのに!
この怒りは相手に期待していたから発生するもの。つまり、誕プレを渡す瞬間に「俺の誕プレもよろしくね!」というサインも同然の代物と化しているのだ。
自らの徒労と相手への期待。この二つが我らの不満を促進してしまい、人助けの意味を変換してしまう。つまりはこの二つを抱かないことが禅であるがそれは無理。だから僅かな幸福に目をやるのだー。と説法を説いてもつまらんので別件に置き換えてみる。
人は恋をすると相手に奉仕したくなる。嫉妬もさせたくなるが最終的には奉仕。
どっかに行く度にお土産を買ったり、相手が好きな音楽を勉強したり、お店を調べたり...etc.
そして相手が振り向いてくれないとなると我慢ならない。なんで俺はこんなに好きなのに君は!そんな思想が頭を埋め尽くす。そして寝もねれず。大事なことを忘れてる。恋をしてるんだ。苦しいはずがないし苦しむ筋合いもない。相手に好かれない自分を嘆く前にこんなに人を好きになれてる自分に陶酔しろ。
人助けも恋も共通するのは、見返りの有無以前にそれをできてる自分がいるということ。その自分の健気で立派な姿を客観的に見れればもっと楽に生きられる。
YAZAWAみたいにね。