moto1201のブログ

日常で思うことを掘り下げます。

一昨年の夏休み、私は友人と裏原に行った。やはりその日も暑く、ダラダラと歩いていたら、前から高校生くらいの女子4人組が歩いてきて、同年代の異性に敏感な私たちは目が剥いていた。彼女らは確かに可愛かったが、’’都会の女子高生’’という印象で私たちは怖かった。近づく度に自分らが品定めされている気がして緊張した。しかし、いざすれ違ってみると私は胸がぐっと熱くなった。彼女らは手話を使って話していた。1人以外の子は声を出しながら手話をしていたので、その子のためにみんな手話を覚えたのか、と考えたら感無量だったのだ。「あのお店入ってみようよ」友人にダミ声でそう言われてふと我に返り、汗を拭った。

 

昨日、「聲の形」というアニメーション映画をNetflixで夜通し見た。聴力しょうがいのあるピンク髪の女子が主にストーリーの軸となるもので、その界隈で巻き起こる人間ドラマである。その映画を見て、色々思い出した。家族や友人など私に多くの影響を与えてきた人を私は大切にしなきゃいけない、と固く誓ったのだ。映画が終わっても余韻に浸り、家を飛び出した私は涙を流していた。タバコを吸いながら向かいにある文房具屋を見つめながら思いふける。

 

誰しもが寛大になれる素質がある。

寛大になるためには他人の裏事情を受け入れることだ。他人の人生を経験すること。それは本や映画を見てでしか得れないものだ。しかし、フルに寛大でいられる人間など存在しない。寛大でいられる時間が長い人間がこの世では’’優しい’’と言われるのだ。

本や映画を見てそれを真摯に感受できたらそれを実生活に活かさなきゃいけない。ある程度徳を積んだ者だけが人を助ける権利を得る。責任とか優しさとか、そんな過程で発生するどうでもいいことを取っ払って他人の人生に介入するのが真の人助けである。人助けは他人の人生に邪魔をするようなものだ。

その度胸が私たちにはあるのだろうか。