ロマンチックって?
「私ちょっとトイレ行ってくるね」
俺は考える。ちょっとだけ考える。
今、俺を誘ってたんじゃないか?「あなたもトイレに来て私とええこっちゃしましょうよぉ」って意味なんじゃないか?
はぁ、また変なことを考えてる俺がいた。夜10時、池袋の居酒屋に。
この世にはロマンチックな音楽もあれば、素敵なプレゼントもあって、綺麗な夜景もある。俺は電車に乗りながら、イヤホンからは福山雅治の「桜坂」を流しながら、ゴミみたいなことを考えふけっている。
もっと直接的でいいのに、言葉にしようとするとどうもロマンを孕んでしまって臭くなる。いつから人類はこんなにロマンチストになったのか。
哀れな男は言う、「あーまたあいつ彼女できたのかよぉ。ずりいなー。」
すぐに恋人ができちゃう人はどうかしちゃってると思う(例外あり)。
人は別れる前提で他人とくっつかないし、未来を読めないもんだから、人と付き合うのは勇気を要する。自分が壊れちゃう可能性なんて無限大だし、ひょんなことで弱る人間が他人に依存したら、そんな恐ろしいことはない。
他人の中身を隅々まで検査できる人間はこの世にもいないし、AIでも無理なはず。でも変な奴と付き合ってる奴に対して人々は言う「見る目ないよ」って。まあその通りだけど、仕方ないことだ。わかんないんだから。
だから俺らには口があって、手があって、物がある。その全てを駆使してアピールしなきゃいけない。
風呂やトイレとか布団の中で、愛の言葉を考えて、好きな人の好きな食べ物、飲み物、場所を覚えて....
これってもうロマンチックじゃないか?
ロマンチックは演出じゃない。心の中にあるのさ。
頭の中にあるうちは全部が傑作だ、とだれかが言うように形にした途端チープなものと化す。妄想や野望は口にしないほうがいい。
脳内がロマンチックなんだよ人類は。
■
環八通りを直進。
国道246、玉川通り、厚木街道を通って着いたのは神奈川県平塚市だった。
カレー屋でウインナーとチーズをトッピングして、コーラフロートも。
厚木市に移動して古着屋に入った。そこが僕らの目的地だった。2人で広い店内を見て回って、僕がメンズTシャツコーナーから抜けると彼女が変なハットを被って登場した。商品で遊ぶ姿を見て、彼女の無邪気な一面を見た。その無邪気たる所以である、人を喜ばせようとする精神が当たり前のように彼女の心には宿っているのかと思うと、魅力的だと感心した。
「おんなはみんな、いんらんだから」
作中で目にしたその台詞。そんなはずはない、と僕は思う。確かに、断片的に見たらそう映るかもしれないが、みんな好んでそうなってるわけじゃない。男というバカな生物に唆されて、自己嫌悪に陥る。数々の後悔と共に女は生きている。
それを汲めない人々と、その経験を通ってない人は弱ったそれを見て’’いんらん’’と言う。
人間に生まれた以上、しがらみに埋もれて生きなきゃいけないし、そこから打開するには出家して俗社会を飛び出すしか方法はない。髪の毛は欲しいし、おいしいものはみんな食べたい。小さな幸せたちの代償としてこの世のしがらみがある。
お気に入りのカフェのおいしいチーズケーキ、美容室でかけるパーマ、好きな人に会える土曜日の夜、駅近くにあるおいしい豚汁屋さん、海外で買ったプロレスラーのフィギュア。
そんくらいで我慢しとこう。
声
一昨年の夏休み、私は友人と裏原に行った。やはりその日も暑く、ダラダラと歩いていたら、前から高校生くらいの女子4人組が歩いてきて、同年代の異性に敏感な私たちは目が剥いていた。彼女らは確かに可愛かったが、’’都会の女子高生’’という印象で私たちは怖かった。近づく度に自分らが品定めされている気がして緊張した。しかし、いざすれ違ってみると私は胸がぐっと熱くなった。彼女らは手話を使って話していた。1人以外の子は声を出しながら手話をしていたので、その子のためにみんな手話を覚えたのか、と考えたら感無量だったのだ。「あのお店入ってみようよ」友人にダミ声でそう言われてふと我に返り、汗を拭った。
昨日、「聲の形」というアニメーション映画をNetflixで夜通し見た。聴力しょうがいのあるピンク髪の女子が主にストーリーの軸となるもので、その界隈で巻き起こる人間ドラマである。その映画を見て、色々思い出した。家族や友人など私に多くの影響を与えてきた人を私は大切にしなきゃいけない、と固く誓ったのだ。映画が終わっても余韻に浸り、家を飛び出した私は涙を流していた。タバコを吸いながら向かいにある文房具屋を見つめながら思いふける。
誰しもが寛大になれる素質がある。
寛大になるためには他人の裏事情を受け入れることだ。他人の人生を経験すること。それは本や映画を見てでしか得れないものだ。しかし、フルに寛大でいられる人間など存在しない。寛大でいられる時間が長い人間がこの世では’’優しい’’と言われるのだ。
本や映画を見てそれを真摯に感受できたらそれを実生活に活かさなきゃいけない。ある程度徳を積んだ者だけが人を助ける権利を得る。責任とか優しさとか、そんな過程で発生するどうでもいいことを取っ払って他人の人生に介入するのが真の人助けである。人助けは他人の人生に邪魔をするようなものだ。
その度胸が私たちにはあるのだろうか。
期待
だいぶ前だが日本に記録的な大雪が降った。
あの日、大学が休講になったり会社が休みになったりして皆気が抜けた1日を過ごしたことだろう。
しかし俺はその日バイトが入っていた。客なんてくるはずないのに。
でも俺には淡い期待があった。今日だけ昇給とか、まかないパーティーとか。
俺は店に電話して営業してるか尋ねるとしてるらしい。ため息ハーハー家を出る。
鍵を閉めて傘を差しシャギシャギ重い雪を踏んで歩き出した。
家から駅まで徒歩15分。うん、間に合いそうだ。
歩いていると、駐車場でタイヤが空回りしているミニバンに目が止まる。
おばあさんがミニバンを後ろから押している。おいおい、それじゃ意味ないよ。
俺は駆けつけて傘で後輪界隈の雪をゲットリド!ひたすらに掻き出した。
するとミニバンはスーッと前進。俺は事を終えて少し期待した。金くれんじゃね?いや期待すんな俺。赤の他人だぞ、あり得ない。いや、だからこそだ。他人だからこそ金もらえるかも。結果、言わずもがなノーマニー。
でも俺には幾ばくかの幸福感があった。いいことしたな、っていう。
バイトには遅刻したけどなんかピースな心持ちだった。
こんなこと、誰しもが経験してると思う。基本的に人間は優しい。他人でもその人が困っていたら助けたくなるもの。ただ、俺も含め見返りを求めてしまうのも人間の性である。これは別にセコいことではなくて当たり前。人は時間を割いたり、金を費やしたりすると見返りが欲しくなる動物なのだ。
誕プレが顕著な例である。マブな奴に誕プレをあげたのに自分のバースデーにはノンレスポンス。おい。憤りMADMAX。マブだと思ってたのに!
この怒りは相手に期待していたから発生するもの。つまり、誕プレを渡す瞬間に「俺の誕プレもよろしくね!」というサインも同然の代物と化しているのだ。
自らの徒労と相手への期待。この二つが我らの不満を促進してしまい、人助けの意味を変換してしまう。つまりはこの二つを抱かないことが禅であるがそれは無理。だから僅かな幸福に目をやるのだー。と説法を説いてもつまらんので別件に置き換えてみる。
人は恋をすると相手に奉仕したくなる。嫉妬もさせたくなるが最終的には奉仕。
どっかに行く度にお土産を買ったり、相手が好きな音楽を勉強したり、お店を調べたり...etc.
そして相手が振り向いてくれないとなると我慢ならない。なんで俺はこんなに好きなのに君は!そんな思想が頭を埋め尽くす。そして寝もねれず。大事なことを忘れてる。恋をしてるんだ。苦しいはずがないし苦しむ筋合いもない。相手に好かれない自分を嘆く前にこんなに人を好きになれてる自分に陶酔しろ。
人助けも恋も共通するのは、見返りの有無以前にそれをできてる自分がいるということ。その自分の健気で立派な姿を客観的に見れればもっと楽に生きられる。
YAZAWAみたいにね。
母上
今週末は母の日です。
帰省する度に思う。この人は俺をどこまで知っているのだろう、と。
俺がどんな性格で何を考えているか。わかっているようでわかってないと思う。
親孝行について考えたことがある。
もう答えは出たから最近は考えなくなったが、俺の持論はこうである。
’’母を女にしてやる’’
それを導き出してからは、親孝行=デート。専らこれである。
レストランを予約して、展覧会に行ったり、ライブに行ったり。
母も大人なもんでそれなりに遊んできたらしく、ちょっとアウトな話も最近話すようになりこれまたオモロー。
でも未だに怒られることはある。金遣いが荒いから。
喧嘩は絶対にしない。俺がいつも折れるから。
娘は父みたいな人を、息子は母みたいな人を好きになるという話はよく聞く。
娘が父のことを嫌う姿は末っ子だからよく見てきた。あれはどうやらそう仕組まれてるらしい。女はより良い遺伝子を探してる。だから父という遺伝子を遠ざけるために父の匂いが嫌いだったりするのだ。
でも息子にそういう機能ないな。なんでだろう。
そんなわけで俺は今年、三茶のカフェで母の日を過ごす。
何をプレゼントするかはまだ決めてない。水曜日あたり買ってくるか。
気づき
僕には美大の友達がいて、そいつと先月飲みに行った時、やはりディープな話になった。
’’ものづくり’’について。
新宿ゴールデン街に行った後、コーヒーをしばきたくなってコーヒー西武へ。
席に案内されて、タバコ片手に怒涛のおしゃべりが始まった。
お互い美術館や展覧会が好きなもんで、今後どんな展示がイカすか、という議題に落ち着いた。
今や、六本木や上野、丸の内、都外で言えば逗子や新潟で多種多様なアートなイベントがある。そのどれを取っても’’斬新さ’’とか’’古き良きもの’’とかが取り上げられていて、それなりに集客し人気を集めている。それもそれで個人的にバズっているのだが、もっとオモローなイベントないかなあ、とも思っている。
アメリカで、真っ白いスペースにメガネをポンと置いたらみんながそれを作品だと思って撮影し始めたという事例があるように、アートは意外にもそこらへんに転がっている。
極端に言えば、普段使っているマグカップだってスニーカーだってダウンジャケットだって「アートです」と言われたらもうアートなのだ。
第二次世界大戦終戦後、日本は焼け野原で物がない時代が到来した。そんな中、ラーメン屋を営んでいた男が小麦を育てて中華麺を作り、素揚げして保存食にしたのがチキンラーメンの始まりだと言う。何もない時代に新しいものを作れば売れるのは当たり前。でも今は物に溢れている時代。何を作っても先達がいて、儲からない時代。ダンス界だって家具界だって小説界だって。じゃあどうするか。
まずは感謝するしかない。今あるものに。それがある意味、今催されている展示会だったり、コレクションだったりするわけだ。
この’’ありがとうスパイラル’’はそのうち終わる。次にやってくるのが’’はじめましてロックンロール’’である。
今使っているコップに対して、「ありがとう。お前がいなかったら不便だったよー。でも新しいの作っちゃうよ。」っていう常識からの逸脱センチュリー。それからは、今では想像できないもので溢れるだろう。
いくら科学が進歩しようと、結局人間は芸術によって突き動かされる。
今は科学の発達により、芸術の存在が薄らいでいるが、科学が存在しない時代は芸術が中心だった。偶像崇拝なんてまさにそれで、物理的に’’ないもの’’を作り出してそれを信仰の対象とし、国家を束ねていたわけだ。
TED Talk で聞いたけど、Apple社が売れた理由は科学と芸術の融合であるから。らしい。機能的にはXperiaの方が上らしいがどうも角ばってて愛着が湧かない。一方、iPhoneは丸みを帯びていて操作も単純でなんか可愛い。ましてiPhoneに関しては、イヤホンジャックと充電器の差込口が一緒というクソなことをしても許されている。
なんでiPhoneを買うか、なんてみんな考えない。俺も考えなかった。みんなが持ってるし、なんかオシャレだから。その時点で既に芸術の虜なのだよハニーバニー。
つまりは、科学技術の発達どうのこうのってゆうとりますけど、裏で操ってんのは芸術であることにみんなは気づいてないってこと。気づいてる人もいるけど。
漠然としたこと。
昨日、10時半くらいにバイトを終えて友達と池袋でラーメンを食べてたら女友達から急な電話。泣いてた。とにかく会いたいという旨だったので池袋に来てもらった。
彼女はレズビアンカップルでダンサーである。
悩み相談の舞台はジョナサンに設定。恋人と喧嘩したらしい。
色々聞いて感想。「同性愛むず!」の一言に尽きる。そんなことを思いながら時間は刻々と過ぎていく...
人間誰しもが話し込んでいけば会話の内容が漠然としてくるものだ。「愛ってなんだ?」とか「恋と愛の差は?」とか...
以前ラジオを聞いていた時にいとうせいこうとみうらじゅんが言っていた。’’愛してる’’って言葉は’’愛してる’’で一つの言葉じゃなくて’’愛’’を’’してる’’んだよ。って。
確かに’’恋してる’’って言葉は’’恋’’をしてるもんな。
プラスアルファで’’I do love you.’’って「あなたを愛してる」の強調構文だった気もしなくなくなくなくなくない?
そこでその女友達にクエスチョンをぶつけられたんだが「恋と愛の違いってなによ?」って。いや、そんな話なんで深夜のジョナサンでしなきゃいけないんだよ!って思ったけどその類、嫌いじゃない。
僕の見解は...恋は甘酸っぱいなんて言ったらリリー・フランキーのエコラム読んでるのバレるしなあ。でも恋は甘酸っぱいよ。思い込みが手伝ってものすごい固いものになる気がするけど横からつついたら簡単に崩れちゃう。まあ恋の定義はこの世にいくらでも転がってるんだけど、愛の定義は本当にむずい。
でも愛は恋よりも絶対数が多い気がする。俺は愛に関しては男女隔てないものだと思ってるから、男友達とツッコミがハモった時とか、深夜に電話して出てくれたりとか会ってくれたりする時に愛を感じる。「うわあこいつ!もう!おい!」っていうなんとも言えないサムシングが込み上がってくる。でもそれを表に出さないから男友達ってズッ友なのかもね。
異性に対する愛は難解キャンディーズ。体の接触で表現できちゃうし、まあそれでも足りないんだけど、なんかたまにチープに思えちゃうんだよね。記念日にプレゼント用意したり、レストレン予約したり、キスしたり...
愛は、形にする前の構想が愛なんじゃないかな。
ただそれに気付いてる人がこの世にどれくらいいるか。
12月1日で5ヶ月記念日。有楽町の東京交通会館の回旋フレンチレストランを予約してもらって、デザートが置かれた季節に4°Cのネックレスのプレゼント。口では「わあ!ありがとー!ニコニコ」しか言えないが心で何を思うか。ただ目前の幸せに焦点を合わせるのか、それとも「この人、私のために前々から色々考えてくれたんだなあ。かーわいっ」まで遡って考えられるか。ましてやそれを彼女が言葉にしてくれたらウレシス極まりない。
愛とは形ないもので、ネックレスとか「愛してる」の言葉とかじゃ伝えきれないサムシングなのさ。物理的な事柄から遡ってそのサムシングを理解しようとすることが愛なのかもしれない。
結局最後までリリー・フランキーだった。